手袋産業の生みの親
嘉永6年~明治24年(1853~1891)
嘉永6年(1853)に讃岐国大内郡松原村(東かがわ市松原)に生まれる。12歳の時、岡山県児島郡八浜村の金剛寺の両児舜行師の仏門に入り、明治16年(1883)に大内郡白鳥村(東かがわ市白鳥)の千光寺副住職に迎えられた。
しかし同19年に舜礼は還俗して、同村の三好タケノ(当時19歳、のちの明石タケノ)と駆落ちし大阪へ出た。そこで生計を立てるためにメリヤス製品のてぐつ(手靴)といわれた指無し手袋の縫製をはじめた。舜礼はこのメリヤス製品に着目し、メリヤス手袋の製造に専念した。
明治24年1月、亡父の仏事に帰郷した際、従兄弟の棚次辰吉(当時18歳)とタケノの親類の寺井カネ(当時18歳)と六車ルイ(当時19歳)を連れて帰阪し、家業を拡大し本格的に経営に乗り出した。しかし、舜礼はその年の6月24日、脳涙結昌病で39歳の短い生涯を閉じた。
生みの親の妻
慶応3年~昭和31年(1867~1956)
明石タケノは明治19年(1886)19歳の時、両児舜礼と駆け落ちし大阪に出た。苦労を重ねながらも両児舜礼と彼の後継者棚次辰吉とともに手袋製造技術の指導に尽力し、手袋製造の発展に寄与した。舜礼と辰吉の両者の成功があったのも、タケノの支えがあったからこそ成し得たものであろう。
手袋産業の育ての親
明治7年~昭和33年(1874~1958)
棚次辰吉は明治7年(1874)に讃岐国大内郡松原村(東かがわ市松原)に生まれる。両児舜礼の従兄弟にあたる。18歳のときに両児舜礼に招かれ大阪にて手袋製造に従事するが、両児舜礼の急死により、舜礼の未亡人タケノを助けて遺業を継ぐことになる。その後独立し、大阪で手袋産業の経営に成功した。そして明治32年(1899)に故郷松原村に帰村し、衰退期にあった製塩業に従事する人々の救済のため、教蓮寺境内に手袋製造所「積善商会」を設立する。
棚次辰吉は事業家としてだけでなく、軽便飾縫ミシン、セーム加工機、手袋仕上機、手の大きさ測定器など24種類にわたる特許権を取得するなど、先進技術の研究導入にも大きい足跡を残した。
生産技術向上の功労者
明治18年~昭和32年(1885~1957)
神崎長五郎は大内郡松原村(東かがわ市松原)に生まれる。松原村役場に勤めて後、大阪に出て同村出身の森本吉太郎が経営する森本商会(のちの東洋手袋株式会社)の番頭となる。そこで縫手袋を担当することで手袋製造の将来性を確信する。明治44年(1911)大阪で神崎商店を創立し、大正4年(1915)白鳥工場を開設した。白鳥工場ではシンガー社製二重環ミシンをいち早く設置し、翌年には電動機設置許可を得るなど誰よりも早く新しい設備の導入に努め、手袋製造の機械化など生産技術向上に大きく貢献した。また、手袋素材の輸入、輸入機械による素材の自給化など商品の高級化にも大きい足跡を残した。
海外市場開拓の先駆者
明治21年~昭和52年(1888~1977)
大内郡松原村(東かがわ市松原)に生まれる。26歳で大阪に出て手袋製造を開業した。大正初期に上海貿易に進出し、対中国貿易に力を注いだ。当時白鳥地区に23の下請工場を持ちこの地域の手袋製造に貢献した。
手袋製造だけでなく、白鳥地域の業界の指導を行い、香川県莫大小(メリヤス)工業組合の初代理事長を昭和13年(1938)から同17年(1942)まで務め、その後香川県手袋協同組合の組合長を昭和29年(1954)から昭和37年(1962)まで務めて業界の発展をはかった。
隠れた実業家
明治6年~明治41年(1873~1908)
森本吉太郎は明治の中ごろに大阪市西淀川区大仁町で糸商を営み、他にもランプの火屋(ほや)や芯、コウモリ傘、そして手袋も販売していた。
大正時代には東洋手袋株式会社を設立し、弟の森本伴次郎とともに手袋産業に取り組んだ。大阪市西淀川区大仁町に本社を置き、白鳥本町、引田、三本松のほかに小豆島、徳島県板野町犬伏にも工場があった。
また神崎長五郎、橋本勝二、橋本善兵衛が番頭を務め、成瀬歌吉が森本伴次郎の秘書を務めていた。そして工場長を鯛谷儀一氏が務めていた。彼らの多くは独立し、手袋産業に大きな足跡を残している。このように有能な人材と資本力から、森本吉太郎の才覚と東洋手袋株式会社の経営の充実をうかがい知ることができる。