両児舜礼が脳涙結昌病で39歳の短い生涯を閉じる。棚次辰吉が舜礼の未亡人タケノを助けて遺業を継ぐ。
棚次辰吉が故郷松原村に帰村し、教蓮寺住職 楠正雄と松原村 村長 橋本安兵衛の協力を得て、衰退期にあった製塩業に従事する塩業民救済のため、教蓮寺境内に手袋製造所「積善商会」を設立する。
棚次辰吉がドイツ製の飾縫手袋にヒントを得て軽便飾縫ミシンを発明し、同35年専売特許4185号を取得する。
第一次大戦によりヨーロッパが戦地となったため、手袋代替生産国として日本へ大量注文が入り、この需要に対応するために、数年かけて多くの手袋工場が設立される。
満州事変により、年間30万ダースあった中国向け手袋輸出が激減する。
満蒙開拓の一環として手袋産業を海外で扶植するために引田町・相生村・白鳥本町の3町村の有志20名により満州徳香手袋株式会社が設立される。
革手袋の製造が再開される。
昭和天皇が四国御巡幸の途次、旧白鳥町の原繊維工業株式会社を御視察する。それを記念して、手袋祭りを毎年実施することとし、第一回手袋祭りが開催される。
第ニ回手袋祭りにおいて「手袋音頭」が発表される。縫手袋と革手袋の生産が急増して輸出が始まる。
編手袋の技術を転用して、ホームカバーの製造販売が始まる。
旧引田町の手袋会社が、韓国ソウルでビニール手袋を製造する。これが手袋産業の海外進出の始まりとなる。
この年の手袋輸出額が22億円となり、同年の香川県輸出額の過半数を占める産業となる。
アメリカ向けの輸出を中心に、産業全体が賑わい活発になる。ゴルフ手袋の製造販売が始まる。
日本手袋工業組合発足する。(~現在に至る)
スキー手袋の製造販売が始まる。
オイルショックにより手袋の輸出が下降する。これにより内需で代替する政策に転換する。
東京原宿で、「81~82手袋コレクション」と銘打って、世界初のファッションショーを開催する。
11月23日を「手袋の日」と定める。
「ふりかえる百年、みつめる百年、きぼうの百年」をテーマにハンドピア‘88手袋百年祭が白鳥町総合会館を中心に開催される。引田町中央公民館ではアメリカ、西ドイツ、イタリア、スペイン、中国、韓国の手袋製造業界の代表を招き、日本を加えた7カ国により世界手袋サミットも開催される。
手袋の海外生産比率が50%に達する。
スノーボード手袋の製造販売が始まる。
UV手袋の製造販売が始まる。
東かがわ市の手袋製造120年を記念してバーチャル・グローブ・ミュージアムが開設される。日本手袋工業組合内で「香川のてぶくろ展示会」が開催される。
「香川のてぶくろ資料館」開館、「香川の手袋アウトレット店」オープン。
古い手袋や製造道具721点が国の登録有形民俗文化財に登録。「香川手袋」ブランド創設。
東かがわ市の手袋産業が、130年を迎える。