グローブミュージアム‐日本手袋工業組合

スペーサー

手袋ギャラリー

  • 切り絵でつづる両児舜礼 その1    ≫その2へ進む 1853(嘉永6)両児舜礼が誕生。
     この年アメリカ艦隊が浦賀に来航。テレビドラマでお馴染みの篤姫が斉彬の養女となった年でもある。
    両児舜礼は棚次利平とサキの長男として生れる。幼名は棚次米吉(良学)。
    棚次米吉 浦賀
  • 1859年(安政6)棚次米吉(後の両児舜礼)6歳。
     松原村の教蓮寺の住職・楠法貫に学ぶ。米吉の父(棚次利平)も祖父(棚次善兵衛)も塩田で働いていた。母(サキ)は父の同僚の妹だった。
    教蓮寺 教蓮寺
  • 1865年(慶応元)棚次米吉(後の両児舜礼) 12歳。
     教蓮寺の住職・楠法貫は米吉のすばらしい素質を見ぬき他郷でさらに学を磨くよう利平に勧める。千光寺の増勇導師に相談し、岡山の八浜村にある両児山金剛寺を紹介される。 両児山金剛寺は備中児島八十八ヵ所霊場73番札所。老師舜行から舜礼を名のるよう言われる。
    学を磨く
    岡山県両児山
    岡山県両児山
  • 1868年(明治元)両児舜礼15歳。
     老師舜行からの特別のはからいで岡山の藩校で学ぶ。
    当時、藩校では漢学、皇学、医学、洋学、兵学、馬術、剣術、砲術などを学んだ。
    学問 岡山の藩校
  • 1871年(明治4)両児舜礼18歳。
     街では御一新が新時代を示す合言葉。旧弊打破の革新的精神の表れであった。蜂起する・切腹・統括、などの言葉が飛び交わされた時代である。
    舜礼は笈を背負い碩学を訪ねる。岸本芳秀(雅楽の奥儀を窮めた人)平賀元義( 歌人・国学者)豊田謙治(尊王思想家)岸本甚造(篤農家)丸川義一(儒学者)など。学問ばかりを身につけ、実践をともなわない舜礼は大いに反省させられた。
    舜礼18歳 84番札所 宝積院住職になる。
    宝積院住職
  • 1868年(明治元)〜1882年(明治15)欧化の風潮、文明開化の時代。
    「チョンマゲ頭をたたいてみれば因循姑息の音がする。
    ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする。」(ザンギリ哀歌)
     獣肉を四ツ足と呼んで忌み嫌った日本人が牛鍋・すき焼きをつつき、文明開化の 味がすると褒めそやした。汽船・電信などの文明の利器も争って輸入した。寺子屋は小学校になり、大勢の外人を雇い大臣よりも高い給料で迎えられた。豚を食うたといって 文明じゃ。あいつは蝙蝠傘さして歩きおる。えらい文明じゃ。 靴を履いたまま座敷に上がりおった。こりゃ、ちと迷惑な文明じゃ。おまけに連れてきたポチ(犬)もあがりおった。
    ザンギリ哀歌
スペーサー
スペーサー